子は親を写す鏡

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子は親を写す鏡

2020年11月3日(火)ボウズマン観察日記

朝4時起床。「文化の日」ということで祝日で仕事は休みだが、得意先のゴルフコンペに参加させてもらう為、朝からあまり自分のための時間は作れてはいなかった。しかし毎日の早起き習慣が身についているおかげで、「ゴルフの日だけ特別早起きしなければならない」普通の人よりも寝坊してしまうリスクは減らせているというメリットを感じていた。早起きは三文の徳だ。

ゴルフの方は、今年は絶不調(という実力通り)だったが、今年最後のラウンドということもあり、思い残すことなくしっかりと煩悩の数(108)を叩いていた。それでも今年の中ではベストスコアだったし、ドライバーが割と気持ちよく触れるようになっていたので本人は満足していたようだ。
最近はドライバーを振るという行為に迷いが生じており

  1. 思いっきり振る
  2. 右に曲がってOB
  3. 小さく振って当てに行く
  4. 左にひっかける・チョロする・それでも右に飛ぶ・飛距離ダウン
  5. さらに当てに行く
  6. ますますひどい球が出る

という「負のスパイラル」を彷徨っていたが、週末に見たユーチューブのゴルフ動画で「頭とクラブで引っ張り合う」という、「クラブは振るもの」という固定概念を覆し、”砲丸投げ”のようなイメージで打つことを心がけたところ、このイメージがボウズマンにはどハマりし、久しぶりに気持ちよく振り切れるようになっていた。
ボウズマンは哲学書で「ニュートン力学」について学んだことを思い出し、ニュートンは「りんご」が木から落ちるのを見て「地球には引力がある!」と言ったことが偉かったわけではなく、そこから考えを飛躍させ、当時は”神のみぞ知る”とされた宇宙の領域まで思考を拡大し、「月と地球が一定の距離を保って存在し続けるのは、月と地球がそれぞれ引力を持ち、お互いで引っ張り合っているからなのだ!」という宇宙の謎を解き明かしたことが偉かったとされる話を自分のゴルフの不調の改善に役立てていた。
そして自分の大好きな「ゴルフ」から、最近どハマりしている「哲学」で学んだ”ニュートン”に繋がったことに人知れず喜びを感じており、ラウンド中にひとり変態のような笑みを浮かべていた。

息子に手を挙げた親の心境

帰宅して夕食後に長男(小1)を叩き、気持ちの悪い思いをしていた。
夕食を食べ終わり、長男が片付けをする際に「飲みかけのお茶」の中に箸やスプーン、フォークなどの食器を入れて片付けており、それを「行儀が悪いからやめろ」と指摘したところ長男が反抗的な目を向けてきたことに反応し、手を挙げていた。
大好きな息子を叩くのは、非常に気持ちの悪い思いのすることだが、自分の嫌いな人間になっていくのを見逃す方がもっと気持ちが悪いと判断したようだ。
「食べ物は残さない」のは当たり前(ボウズマン家では)だが、「お茶なら許される」という意味がわからない。どちらも口に入れるもので、廃棄することは”もったいない”ことではないのだろうか?
「飲み物」だったモノに使用済みの食器を入れるという行為は、「飲み物」から「飲めない物」に自分で変化させてしまうことである。
これが食べ物だった場合に同じことが出来るか?さっきまで「食べ物」だったモノにティッシュやゴミを混ぜて「食べられない物」にしてしまう行為と同じである。
ボウズマンはそういった行為が許せないのだ。
そんなことが出来る人間には「いただきます」も「ごちそうさま」もいう資格がない。そもそも意味がわかっていないからだ。

それを泣きながら「だっていつもしてるもん!」と子どもに言われたとき、大変ショックを受け、親の責任を痛感していた。
長男本人は悪いという意識は全くなく、「いつもの片付け」としか思っていなかったのだ。
だから悪いのはその習慣をつけてしまった自分なのだ。

子どもを叩いたことがその何倍にも膨れ上がって罪の意識をボウズマンに植え付けていた。
「子どもは親を写す鏡」というが、確かにその通りだと感じていた。
子どもの行為を「見逃す」のは、子どもからしてみれば「許されている」と同義なのである。
「ご飯を食べ終わった後、いつも先に風呂に入って準備をしているから」とかは理由にならないのである。

改めて「子どもをしっかり見つめる」ことの大切さを実感した1日となっていた。
「子は親を育てる」というが、子どもを見て・接して学び、そして昨日より今日、今日より明日は少しでもマシな親になれるように努力しようと心に誓いながら、久しぶりに気持ち悪い気持ちで就寝。

明日も頑張って!

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